敗戦の日 〜城北大空襲〜

89歳になる母から、空襲の時に雑司ヶ谷墓地や学習院の森の中を逃げ回った話を聞いている。当時、母は雑司ヶ谷に家族と暮らしていた女学生。長男である叔父は兵隊で朝鮮半島にいたらしい。母は市電に乗り深川の女学校に通っていた。学校帰りによく富岡八幡宮の境内で友達とおしゃべりしていたと言う。まだ空襲がないつかの間の時間、母の青春の時。

母が経験した空襲とはどういうものだったのか、本人の記憶に曖昧なところもあるので調べてみると、それは1945年の4月13日の城北大空襲だということが分かった。桜が咲く春のこの日に、一般市民を狙った空爆。アメリカ軍は木造の日本家屋を造り、効率的に焼き尽くすための実験をしていたのだという。その結論が焼夷弾をばらまくという事。豊島区は半分以上が壊滅状態で、3月9日未明の東京下町の空襲と並ぶほどの死者を出したともいう。母がよく話す、大きな風が起こって火だるまがいくつも道の向こうから走ってきたという、その光景を想像してみるが、それには勿論限界がある。そして当事者の恐怖など到底分かるはずがない。

母が生き残ったのは偶然である。努力した訳でも工夫した訳でもない。ただただ逃げてそしてたまたま焼夷弾に当たらなかっただけだ。そこに個人の命の尊厳などあるはずもない。それが戦争というものの正体。アメリカは,日本人は子供から年寄りまですべてが戦闘員だから殺してもよいのだという理屈で空爆を行ったのだという。「欲しがりません、勝つまでは」を徹底的に教え込まれ、敵が上陸してきたら長刀(なぎなた)で殺すのだと訓練された女学生の母もひとりの戦闘員だったということだ。その空襲の最中、千葉まで食料の調達に行っていた私の祖母は、錦糸町駅のホームから一面の焼け野原を見渡して、娘はもう生きてはいまいと思ったそうである。母たちは音楽学校の校庭に自ら掘った防空壕で暮らしたらしいが、やがて母は学徒動員で長野の小諸へ行き、残った家族全員で千葉へ疎開したのだという。だから私が子供の頃には、千葉の田舎に祖父母がいたということになるのである。

戦後、母は千葉で女学校を終えたそうだが、やがて結婚して東京へ戻る。その場所が逃げ回った学習院の森からそう遠からずの高田馬場だったのである。私が子供の頃は、まだ母が通学に使ったであろう都電が走っていた。池袋のデパートに行くこともあったが勿論、その賑やかな繁華街が焼け野原だったなんて知るはずもない。池袋には行きつけの鮨屋があって家族でよく出掛けたものだ。そんな時の母は何を思っていたのだろう。明治通りを歩いて花園神社を右に見ながら歩くと伊勢丹の角に出る。そこも賑やかな繁華街である。高度成長期の子供だった私は、新宿が副都心として変わり行く中に育った。欲しがりませんの青春時代を送った母は、その反動のように欲しいものは何でも買ってくれた。山の手線沿線の高田馬場、目白、池袋、新大久保、新宿、代々木、原宿、渋谷。中学生になってから暮らした市ヶ谷。そこから四谷、赤坂周辺。これが私の子供時代の生活エリア。そのほとんどがかつては焼け野原だったのだ。たまたま母が生き残ってくれて、私が生まれ私の娘が生まれて今、親子3代が仲良く暮らしている。亡くなった人たちの無念を思ったらこれほどの幸せがあるだろうか。

空爆に参加したアメリカ人パイロットの言葉が印象的だ。戦後だいぶたって東京に来た時に、自分が向けたカメラに向かって子供がピースサインをしたのだそうだ。その人の群れを眺めながら自分が焼夷弾を落としたその下に、人々の営みがあったのだということに気がついた。そして空を見上げた時に、B29の焼夷弾が落ちてくるような錯覚に捕われた………..と。戦争には個人としての敗者も勝者もいない。ただ国家が負けるか勝つかなのである。そしてその国家は国民ひとりひとりのことなど考えていない。そこに暮らしの営みがあることを。人は個として生きたいのだということを。国の平和を守るために徴兵制度が必要だという……….想像力の欠如した者たちがいることが、この国の戦後教育の有り様を示していると思う。恒久的平和を真に願い、そのことの大切さを真に学び、それを心から望んでいるのはもしかしたら平成天皇だけなのではあるまいか、と思えるような昨今である。

広島の呉の士官学校で終戦を迎えた父は以後、国家というものを信じていなかったと思う。そんな父に甘やかされて育った私がアメリカ留学を希望した時に、「お前は敵の国に行くのか?」と言った。父の戦後はまだ終わっていなかったのである。否、終わりなんてなかったのである。娘は今のうちに、戦争の体験を語る祖母の肉声を録音しておくという。

『野辺の花、めしいだされて桜かな』

野辺の花として生きたかったであろう、特攻隊員の辞世の句。知覧から飛び立ったこの少年の死に報いるようなその後を、この国は歩んできたのだろうか…………….。